公立学校では保育園、幼稚園、小学校、中学校と同じ学年での保護者同士の交流がとても大事です。人間関係がい時はもちろん問題はありません。でも、少しでもそのバランスが壊れたら、、。9年間、あるいは13年間、毎日恐怖で過ごしている、、、そんなケースも多いのですよ。それは子供同士ではありません、大人同士で起きているのです。
「ねえ、こんどみんなで○○レストランに行きましょうよ?」「ねえ、ねえ、こんどみんなで会費出して○○習わない。一人1万円よ。」
どんな組織でも必ず集団を仕切る方はおられます。それはそれでよいのです、またそういう人がいなくては組織は動きません。
その人も悪気はありません。でもすべての人が皆ゆとりがあるわけでもなく、経済的に苦しいご家庭の方もおられれば、介護を抱えて家庭にゆとりのない方もおられます。ご主人がリストラされ奥さんがパートで働かなければいけない方もおられます。
「そんなことは誰でもあることだよ。」「誰だって大変なんだよ。」
そういう言葉で多くの人が苦しんでいます。
地域のボス的な方が集団を仕切る場合はかなり切実になってきていたりします。その人が発言するとみな逆らえなくなってしまうのです。
恐怖心で発言が一切できなくなり、一家で引越しされる方もおられます。
でも大半はそんな余裕もありませんし、子供のために我慢をいたします。
でもこらえ切れずに感情が爆発して何か言えば
「あの人はわがまま」「集団で行動できない人」と言われ
大人の中で村八分が行われてしまいます。口を利かない、発言を無視する、あいさつしない、、、、など、本当に悩んでしまわれる方がおられます。
小さないじわるです・・・・それが大きないじめになるのです。
大人の中でのいじめはその方の家庭を崩壊させてしまうことだってあります。
「あの人付き合い悪いわよねえ。」「ねえねえ、聞いて、あの人ちっとも出てこないわよね。」
この「ねぇ」「ねっ?」が実は多くの場合、暗黙の同意を求める圧力になってしまうことがとても多いのです。
言う方も、同調してうなずく方もいじめてやろうという意識が無かったり、軽い気持ちで行ったりしている場合が多いのです。
でも言われた方は強烈なストレスを感じて生活を続けなくてはいけません。
大変難しいことです、でも日常の小さな思いやり、やさしさを現代の人は忘れているように思います。
勝ち組とか負け組とか、かつて普段の生活でそんな言葉などありませんでした。
幼いころ私は田舎に住んでいました。戦後間もないころでそこらじゅうが貧乏でした。もちろん私も戦後生まれです。でもその頃の感覚なのですが、負けちゃったからみんな貧しいんだ、みんな同じなんだ、という奇妙な平等感がありました。
お菓子を買ってもらえない子も、服が破けてる子も、みんな仲良しでした。裕福な子もいました、でも仲良しでした、、、
今もう一度その頃の気持ちが必要なんじゃないかと思います。
みんな一緒なんだ・・・それは流行を追いかけて、みんなと同じ物食べたり、同じような生活に合わせなきゃあいけないということではないと思います。
暗黙の命令で従わなければいけないということが問題なのです。とてもとても難しいことです。
でも大事なことなのです、大人のいじめが幅を利かしているところはやがて、メンバー全体に嫌気がさしてきます。一人去りまた一人去り、最後はボス的な人の仕事が増えて「みんな非協力だから私辞める。」ということが起きてしまいます。
日常で小さな優しさを持ちたいものです、、それは私自身への自戒でもあります。